将軍である徳川氏は [徳川家・歴史・権力]

本来は主従関係に基礎を置いた封建領主であり、その権力は私権力であった。

その私権力が国家君主として公権力に転化するためには、その権力支配が支配の正統性を獲得することが不可欠であった。

そしてその正統性の根源は、徳川氏が正統性主張の根拠になるべき独自の宗教性をもたない限り、基本的には伝統的権威に、政治的には天皇にあった。

そこで、徳川氏にとっても、政治的に天皇との関係をどのように保つかによって、その支配の正統性を獲得するかということが問題であり、さらにその際、織田信長・豊臣秀吉政権の対処の仕方をどのように歴史的教訓として受け止めるかが問題であった。

結果は、徳川氏がその領主制関係のなかに天皇・伝統的権威を組み込むという方法で実現した。

それは、禁中並公家諸法度の制定、和子入内、紫衣事件によって、1629年に完成した。

ここに将軍が最高の貴種であるという位置が明確にされ、その支配が公的支配であることの論拠が確定された。

このように位置づいた将軍を公儀とよぶ。

ここで、公儀を頂点に、封建的諸関係は、公的な関係に転化していった。

しかし、これに対して、封建的関係はその根源において私的関係であったから、この公儀の成立は、いわば私的関係が公的関係に連動せしめられるという結果となった。

このことは、幕藩体制の国家や社会にさまざまの特徴を与えることとなった。

とくに、武士の道徳においては、本来の主従関係にたった倫理とは異なった、武士道の倫理意識を形成させることとなった。

幕藩制国家の支柱である将軍とその家臣および陪臣は、石高知行制によって貫かれていた。

そしてその石高知行制は、石高基準の軍役と不可分に結び付いていた。

これらの知行―軍役に結ばれている家臣や陪臣たちは、将軍に統一的に統率される軍事組織に編成されていた。

これを番方という。

同時にこれらの家臣や陪臣たちは、幕府や藩での行政分担者でもあった。

彼らはそれぞれの行政機構での「役」人だったのであり、このような行政分担者としての編成を役方という。

将軍の家臣は、大名・旗本・御家人に区分されていたが、それらはすべて、将軍の強い統制下に置かれた。
update:2010年03月16日